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やっぱ志ん生だな

たけしの新版「やっぱ志ん生だな」読んだ。

昔から落語は志ん生か松鶴、小学生のころ、死ぬかと思うたぐらい過呼吸に陥ったのが松鶴、今この人の写真みるとその時の記憶がよみがえり、自然と体が喜んでいる。やはりそういうものだなあ、志ん生も然り。

たけしさんが落語をやる話は聞いたことがある。今回この本で本格的なんだと知った。やはりただものじゃないなあと思う。黒沢明がツービート時代のたけし見て、こいつはただものじゃないと言ったとか。

やはり出る人は双葉は…のものを持ってるんだなあとつくづくこの本読んでおもう。

志ん生の落語、まさに芸を超えたものとたけしはいう。落語家は「喋り」に高座にあがるが志ん生は「楽しみに語り」で高座にあがる。そして人が同じところで笑いをとるところはさらっとやって、人が笑いをとれないところで爆笑をとる、爆笑王といわれた三平とも違う、超えた存在だと。

出だしはちょっと高い声、途端客席からの息を止めて聞く体制に入った客の空気が間をつくる、またその空気が聞こえるという。

なんともまあ、その空気の中を縦横無尽にかけぬけ、客の心理を思うままにいじって去っていく、なんとも客はここちよく、もっとと夢心地の中に気が付けば高座にいない、料理人の名人は、切られる魚も知らないまま身になっていたと、まあそういう話、とまあそんな名人芸の落語、たけしは小さい時からすでに魅了され、今でも夜寝るときに聞いていると。

たけしの落語、筋をしってだいたいのオチを設定したらあとはアドリブで進めるらしい、なんともこちらも名人、いつか聞いてみたいものだなあ。語呂が多いから落語書いた人より面白いのかもしれない、たけしの落語は。

たけしは今談春の弟子となってると書いてあった。談春といえばチケット瞬間に売り切れの落語家、集まるんだ、そうい仲間は。

役者ももっと勉強しなくてはなあ。あるテーマを決めて最後のオチまでもっていく、人を飽きさせない話術を構築する勉強を。思えばアドリブなんて堅物の役者からすれば、親の仇みたいに言われる、邪道だと。

でももしライブ、セリフがでてこなくなったら、そこを筋を違えないでもっと大きな感動を創る技術と創造性がないとできない、それを邪道だなんて、力のないことと創造性に乏しいことを暴露してるみたいだと私は思うがどうだろうか?

まあ、日々、勉強だなあ、舞台という生き物をどう手綱でもって表現までもっていけるかだろうなあ、それを1たす1ばかりではなあ。実はそこに面白みがあるのは事実。よく役者がセリフとちり齷齪して、真っ赤になりながらつないでいこうとする瞬間に客はリアリティをみて「おもろかった」という話は何度もきいたことがある。覚えたことをなんの芸もなく言うだけの話、つまらないなあという感想も逆に何度もきいたこともある。

生きてる、大事な舞台の要素だよね。

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