初めて、全員が揃った稽古があった。各人がかなり入れ込んで読み込んできている雰囲気が少しする稽古だった。しかし、まだ「ここは強く、ここは大きくいうの?、すぐいうの?」なんて、初歩的な「どう言うのがいいのか?」に拘ってるようなメンバーもいたが、形ばかり気にしている、まだまだ。
基本、自分の役の背景や性格付けや台本上での役割などを自分が作り、稽古で試す、そこに演出がだめだしをして周辺とのバランスや勘違いを正していくのがあたりまえなのだが、演出が読み方やいろいろな声の出し方まで指導するのは、どだい勘違いしている。
それに演出に言われるとすぐ「前はこういったですよね?」なんて揚げ足とる素人がいるが、これもどだい自分がその役のイメージづくりできていない証拠、考えの浅さをつかれて、さも正論化しようの根性、みっともないこと然り。そして解釈がまちがってるなら改めるが、表現で自分ならそうしないと思う事をさも正論のようにダメだしをするのはどうかと。表現は無限という言葉がある。人がする逆の表現でリアリティをつくることは芝居では当たり前、挑戦もしない「普通」の発想の舞台なんて発見もなければ、見る価値もない、と私は思うが。
読みこんで創ってくる、演出がつくるのじゃない、そういう点では素人集団といわれても仕方ないが。
ただなんとなく、後半のドラマ的展開、まだ全員が手探りで、つかみ切れていない状況だが、雰囲気的に舞台の雰囲気が見えてきたのではないだろうか。
演出から「2月半ばか後半には立ちましょうか」という話があった。いよいよ始まる感じ。私は「夫」を未だつかみ切れていない、手探り状態。昨日もひとつの挑戦をしてみた。それはじめじめいじいじな夫でなく、努めて明るさの繕いの中に、夫のもつ理解されないもどかしさ、そしてそれを出すことで、周りとのコラボがどう生まれるのかと試したが、全然変わらなかった、失望した。演出からは「ちょっと違う感じかなあ」との感想、人ってその人の立場がなす威厳や見栄をつくる所作はする、その結果、周りがそれを理解し、応酬も変わって来るもの…なのだが、結果人に表現として理解されなければ意味がないので、このトライはしばらく封印しておく。
いろいろ挑戦だ。
そしてアンサンブル、残念だが、代役の里香ちゃんが読むほうがリアリティがあることがたくさんあった。
やはり技術的な土台がしっかりできているのと、芝居をつかんでいる感の良さなのだろう。一人はいるだけで化学反応をいいように起こす。見事である。
そのあと、いつもの居酒屋でいっぱい。そして那須さんと垂水で降りてまたいっぱい、芝居談義、結論的に「喜劇はむつかしい」だった。なかで、偶然に私は5日ほど前に見ていた「泣くもんか」阿部サダヲ、宮藤官九郎作のビデオを、那須さん、間宮さんに「これおもしろいよ」と紹介されて2日前に見ていてなんとおその偶然にコメディアンの話で盛り上がった、ハイボールが俄然濃いモノになっていた。コメディアン、なんと醸し出す体質をもっている、という結論になった。この芝居、そういう血が集まれば面白いものができるのになあと言って改札口まで送って帰った。なんか青春の一コマのような駅でのシーンだった。67才、まだまだ若いのかなあ(J)。